第2章 科学技術の発展と感染症の克服

第2章 科学技術の発展と感染症の克服

 

 この章では、科学技術の発展や感染症に立ち向かった人物を取り上げ、人類が感染症をどのように克服してきたかを述べる。

 

第1節 細菌とウイルスの違い

 

細菌は単細胞生物で栄養源さえあれば自分のクローンを作り増やすことができる。人体に悪い影響を与える細菌もある一方、人体に良い細菌も存在する。例として、人体によい影響を与える細菌は納豆菌や乳酸菌などがあり、逆に人体に悪い細菌は大腸菌黄色ブドウ球菌などがあげられる。

ウイルスは細菌の50分の1ほどの大きさで自分の細胞を持たず、ほかの細胞に入り込んで生きる。人体に入ると細胞の中で自分のコピーを作らせて増殖する。例として、インフルエンザウイルスやノロウイルスなどがあげられる。

・細菌の発見について

ドイツのロベルト・コッホ(1843~1910)による炭疽菌の発見からはじまった。このことによって細菌が動物の病原体であることを証明し、その証明指針であるコッホの原則を提唱した。

病原体としての細菌研究の黎明期から、日本人はその研究に従事・貢献して北里柴三郎志賀潔などの細菌学者を輩出してきた。この関係から、日本国内においては細菌学という学問が病原体を扱う分野として成長を遂げてきた。その後、細菌以外の病原体であるウイルスの発見がされる。

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・ウイルスの発見について

ルイ・パスツールエドワード・ジェンナーはウイルスの感染を防ぐ最初のワクチンを開発したが、彼らはウイルスの存在を認識してはいなかった。

ウイルスの存在に関する最初の証拠は、細菌が通過できない大きさの孔を持つフィルターを用いた実験から得られた。

1892年ドミトリー・イワノフスキーは、病気に感染したタバコの葉の圧搾液が、このフィルターを通しても感染性を失っていないことを示した。マルティヌス・ベイエリンクは、この濾過された感染性の物質を「ウイルス」と名付けた。この発見がウイルス学の始まりであると見なされている。その後、フェリックス・デレーユによるバクテリオファージの発見と部分的な性状解析によってこの分野は活性化され、20世紀の初期までに多くのウイルスが発見された。

第2節 感染症対策に貢献した人々

 

ここでは、現代の医療につながる医療体制や技術を確立した人物の例として3人を紹介する。

 

第1項 エドワード=ジェンナー(1749~1823)

・生い立ち                    f:id:Imakiyo:20210213083521p:plain

1749年5月17日にイギリスのバークレイという小さな村で生まれた。

どこまでも丘のつらなるこの一帯は、乳牛の放牧がさかんな酪農地帯であった。12歳になったジェンナーはソドバリーの開業医ダニエル・ラドロウに弟子入りして、9年間医学の勉強をした。この間に自分の生涯をかけて取り組むことになった研究のきっかけとなる話を聞いた。21歳のときにロンドンに医学の修行に行き、外科医、植物学者として有名なジョン・ハンターの住み込みの弟子になった。ジェンナーは当時の最も優れた先生のところで学ぶという幸運に恵まれたのである。24歳のときジェンナーは故郷のバークレイに帰って開業医として仕事をはじめた。牛痘種痘法の開発はここで行われた。

 

・功績

ジェンナーは乳絞りをする女性が、軽い症状の天然痘(牛痘)にはかかるけれども、命を落とすような天然痘にはかからないという事実に着目し、水ぶくれの中の液体が何らかの方法で抗体を作って病気になるのを防いでくれているのではと思い研究を始めた。はじめに彼は、牛痘にかかった女性の水ぶくれから液体を取り出し、使用人に何度も接種させ、最終的には天然痘を接種させ、天然痘にかかりにくくなる結果をまとめて論文にした。この方法は種痘法と言い、ジェンナーの種痘法は大きな成功を収めた。

1840年、当時のイギリス政府が、ジェンナー以外の方法を禁止するほど効果的だったのである。 ジェンナーは、種痘法の特許をとることはしなかった。特許をとるとワクチンが高価なものになり、多くの人々に行き届かないと考えたからである。これが人類最初の天然痘ワクチンの誕生である。

第2項 アレクサンダー=フレミング(1888~1955)

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・生い立ち

レミングは、スコットランドのエアシャー地方、ロッホフィールドの農場で生まれ、そしてキルマーノックのリージェント工芸学校で2年間教育を受けた。ロンドンに移住した彼は王立科学技術学院(Royal Polytechnic Institution; 現 ウェストミンスター大学)に入学。卒業後、商船会社に4年間勤めた後、1903年ロンドン大学セント・メアリーズ病院医学校に入学、1906年に同校を卒業後セント・メアリーズ病院の接種部に、A・E・ライトの助手として入った。この年に医学博士になっている。

その後は第一次世界大戦で同病院が破壊されるまで、同医学校に所属した。1914年に召集され、第一次世界大戦の間、彼は多くの同僚とともにフランスの戦場病院に参加した。ブローニュのイギリス陸軍病院の細菌研究施設で研究に従事した。戦場の死にかけている軍人が罹患するガス壊疽などの恐ろしい感染症と直面した経験により、戦後、セント・メアリーズ病院医学校に復帰した彼は、感染症治療を改善する薬剤の探索を始めた。

 

・功績

レミングは、ブドウ球菌を培養中にカビの胞子がペトリ皿に落ち、カビの周囲のブドウ球菌が溶解しているのに気づいた。このことにヒントを得て、彼はアオカビを液体培地に培養し、その培養液をろ過した液に、この抗菌物質が含まれていることを確認し、アオカビの属名であるPenicilliumにちなんで、ペニシリンと名付けた。現在も抗生物質として使われている。当時、第二次大戦中で多くの戦傷兵がこのペニシリンで助かったという。

 

第3項 フローレンス=ナイチンゲール(1820~1910)

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・生い立ち

1820年5月12日、イギリスの裕福なジェントリの家庭である両親の2年間の新婚旅行中にトスカーナ大公国の首都フィレンツェで生まれ、フローレンス(フィレンツェの英語読み)と名づけられる。幼少期は、贅の限りを尽くした教育が施される。しかし、慈善訪問の際に接した貧しい農民の悲惨な生活を目の当たりにするうちに、徐々に人々に奉仕する仕事に就きたいと考えるようになる。

ナイチンゲールは精神を病んだ姉の看護をするという口実で1851年、ドイツの病院付学園施設カイゼルスベルト学園に滞在する。ここでは、看護婦(当時)に対しても教育が行われていた。その後、看護婦を志し、リズ・ハーバートに紹介されたロンドンの病院へ就職する。ただし無給であった。生活費は年間500ポンドかかったが、数少ない理解者の父が出していた。のちに婦人病院長となったナイチンゲールはイギリス各地の病院の状況を調べ、専門的教育を施した看護婦の必要性を訴える。当時、看護婦は、病院で病人の世話をする単なる召使として見られ、専門知識の必要がない職業と考えられていた時代であった。

 

・功績

ナイチンゲールは1853年に起こったクリミア戦争の悲惨さを知り看護婦団を結成して戦地へ向かった。訪れた野戦病院では、冷たい風が吹きすさんでいる汚物まみれの病室と、満足な手当ても施されないまま、ゴキブリ、シラミ、ネズミなどがうごめき走り回る、むき出しの固い床に寝かされた傷病兵たちの姿があった。その環境の劣悪さから、多くの者がチフスコレラを罹っていた。

その上、必需品である薬や食料が不足し、死者の数だけが増え続けていた。驚くことに、病院での死亡率は戦地でのそれに対して7倍の高さであったとも伝えられている。物資補給体制を整えたり、職員や病室を増やしたりといったナイチンゲールの寄与もある。患者の傷の手当てをする人材の不足、包帯や薬などもろくに補給されていない現状を訴え、重傷兵のための特別食や、ロンドンから志願してきた腕利きの料理人に頼んで病院の食事を一変させた。こうして白いシーツの上で横たわり、熱いスープを口にした兵士たちは、戦場から天国にきた思いを抱いたのだった。

また、今でいうナースコールを取り入れて昼夜を問わず患者の元に駆けつけることができるようにした。当時としては画期的なアイディアであった。 軍病院改善のため、ついには個人財産を投げ打ち、リネン類や包帯、防寒具などの日用品の買い付けから、200人の職員増員、病院施設の拡張・改築まで、まさに徹底的な改革に乗り出した。ナイチンゲールがつぎ込んだ財産はざっと約7000ポンド。これは現在の35万ポンド(日本円で約五千万円)にも相当する。このように不潔で医療設備の不十分な野戦病院の改革に努めた。帰国後イギリス女王の基金によりナイチンゲール=ホームという看護婦学校を開き、多くのすぐれた看護婦を育て、現在の看護師の基礎を確立した。 

 

第2節 現代の対策

 

第1項 日本のマスク、手洗い・うがいの効果と歴史

現在の感染症対策で必要なことを調べ、マスクと手洗いは厚生労働省に言われている通り有効である。うがいをすることでインフルエンザを予防できるという科学的な根拠は証明されてはいない。

 

・手洗い・うがいについて

手洗いの起源は、神社や寺にお詣りするときのお清めからだと言われている。うがいは平安時代から口腔清掃の手段として使われていた。これらは、アメリカなどの欧米諸国では主流ではない。

日本では水道水でうがいをする以外にも薬局に行けば多くのうがい薬を手に入れることができるが、アメリカではまず見かけることはないという。唯一うがいを取り入れた商品といえばマウスウォッシュ(口内洗浄液)である。マウスウォッシュは一般的には歯磨きのあとなどに使う商品であって、歯磨きでは取り除くことのできなかった菌を除去するのが目的で使われる。それ以外にも口臭予防効果をうたっている。また、外国の水道には微生物がたくさん含まれているので、その水で「うがい」をすると、かえって菌が増殖してしまうというのだ。日本の水道事情のよさが、「うがい」文化を裏で支えていたというわけである。

 

・手洗いの効果

きちんと手洗いをしているつもりでも、水やお湯でサッと流すだけでは、細菌やウイルスは落とせない。石けんを使ったとしても、しっかりと時間をかけて洗い残しがないように丁寧に洗わないと効果は半減してしまう。

また、冷たい水が嫌だからといって、熱いお湯でゴシゴシ洗うのもNG。皮膚の油分が奪われて、手荒れの原因となってしまい荒れた皮膚は、細菌が大変増殖しやすいことが分かっている。さらに、きちんと手を洗っても、家族で共有のタオルを使うと台無しである。湿ったタオルで増殖した細菌が再び手に付着してしまう。

 

・うがいの効果

無意識に口や鼻を触り、浮遊する細菌・ウイルスを知らないうちに吸い込み、それらが口腔内・喉にとどまってしまうと、風邪などの感染症の原因となる。うがいをすることで、喉や口の粘膜に付着した細菌やウイルスなどを口の中から洗い流し、感染を予防することができる。

また、喉は乾燥することによって粘膜の表面の繊毛運動が弱くなったり、止まったりすることで、細菌やウイルスが侵入しやすくなるので、うがいは喉を潤す働きがあるため、風邪や感染症の予防にもなる。

最近なにかと話題のポビドンヨードは、幅広い細菌やウイルスに対し殺菌消毒作用を持つ成分である。刺激性が低いため、世界的にうがい薬だけでなく、注射や手術を行う時の皮膚や粘膜の殺菌・消毒に使われることもある。濃い茶色をしていることが特長で、衣類などにつくと落ちにくくなってしまうので注意が必要だ。

また、ヨウ素含有成分でアレルギーがある、甲状腺疾患など特定の基礎疾患を持つ方は使えない場合もある。

 

・日本のマスクの効果・歴史

マスクは主に飛沫感染を防ぐもので、日本では使用率が高く欧米に比べて新型コロナウイルスの被害も少ない。日本ではスペイン風邪(インフルエンザ)の流行から注目されるようになり、国が配布したポスターには『マスクをかけぬ命しらず!』と書かれていた。 

当時、日本の報道でのスペイン風邪(インフルエンザ)の俗称は「流行性感冒(かんぼう)」である。

感冒とは体を急激に寒気にあてた際などに起こる呼吸器系の疾患の総称で、当時は流行り風邪ぐらいの認識しかなかったことがわかる。

 

 

・出典

・細菌とウイルス 最終閲覧日2020年6月29日

http://amr.ncgm.go.jp/general/1-1-2.html

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%B4%B0%E8%8F%8C%E5%AD%A6

ジェンナーについて 

・ジェンナーの贈り物

 

ペニシリンについて 最終閲覧日 6/29

http://www.med.akita-u.ac.jp/~doubutu/gijutubu/AMP/Penicillin.html

ナイチンゲールについて 最終閲覧日 6/29

https://colorfl.net/nightingale-matome/

手洗い・うがいの歴史、効果 最終閲覧日6/29

https://healthcare.ds-pharma.jp/health_column/jobigaku/vol077/https://www.tepika.net/info/faq_protect.html

https://www.kao.co.jp/lifei/support/77/

https://tenki.jp/suppl/ryoko/2015/03/14/2201.html

https://nurse.ipec.or.jp/hand-washing-and-gargling/

マスクの歴史 最終閲覧日6/29

https://www.tamagawa-eizai.co.jp/tamacarelab/column/57

https://weathernews.jp/s/topics/202004/160185/

 

次は最終章です。